40章 闇通り血乱舞曲序章
耳をよく澄ませて、追ってくる足音が聞こえないのを確かめた私はレイに声をかけた。
「レイ、降ろして。もう大丈夫だと思うし」
それにやっぱり気恥ずかしいっていうか……あうう。慣れれるものじゃないもん、こういうのって。
「嫌なのか」
え、と私は思わず瞬きをした。驚きで。
「そういうことじゃなくて。私をずっと抱えてるんだよ。疲れない?」
なんでいきなりそんなこと聞いてくるんだろ。まさかレイがそんなこと言うなんて。
「これくらい、疲れるほどのことじゃない」
「あ。さらりと言い放ったね、レイ」
前に靖が私をおぶってくれた時はひーひー言いながら歩いてたのに。かなり昔のことだけど。
うーん、でもやっぱり体の鍛え方? そこが違うのかな。でもやっぱり身体能力すごいよね。
しかも私たちとほとんど変わらない歳なのに雰囲気とか、いろいろとすごいし。
「これしきで支障を来すのであれば何も出来ないのと同じだ。まだ油断は許されない」
「……そうなんだ」
人間一人分もの重さを抱えて一時間以上走り詰めても、何でもない顔をしなくちゃならない?
どんな生活を送ってきたんだろう。普通に育ってきたなら、そんな眼はできないと思うよ。
まるで漫画のキャラクターみたいに、レイは鬱屈とした表情を浮かべることがある。
自分にはもう何も守るものがないって口にして絶望的な状況にも身を投じられる危うさが透けてみえる。
「レイってさ」
だから、今こうなのかな。ひねくれてるって断言しちゃうのはよくないけど。
普通に遊んで夕方になったら家に帰って家族でご飯食べて。そんな日常、本当になかったのかな。
全然なかったわけじゃないと思う。だって、レイにはお姉さんがいた。姿を見て目を見開くほどの。
「どうかしたのか」
「ううん、何でもない。ありがとね、無理はしないで」
ダメだ。他人の私がずかずかと聞いちゃダメだよね。誰にだって聞かれたくない過去はあるよ。
それにお母さんに他人の古傷えぐるようなことはしちゃ駄目って言いきかされてたし。
鋭いところがあって、言いつけを破ると全然容赦しない、私のお母さん。
お姉ちゃんが妹の前でバカしない、って最近一喝されることが多かったりするけど。
また帰ったら外出禁止令かお小遣い減らされるか勉強づけにされるかな。
お母さん、お父さんと出会う前は荒れてたっていうけど大学に在籍してたんだよね。
だからかなり頭良いんだよね。それだけにお母さんの勉強づけは頭が痛くなるし。
自分の家族を思い出した後で、私はレイの家族に思いを馳せる。
ミレーネさんは、結局どうなったんだろう。建物が崩壊しちゃっても、あれで死んではいないよね?
あの時は実体があったけど……でも、もともと幽体だったし。幽体の時は、物もすり抜けられるけど。
どうなんだろう、ほんとのところは。あのとき掴んだ手のひらは、温かかった気もするけど、真実は過去という闇の中。
どんな生い立ちで、どんな人生をレイとミレーネさんは歩んだの?
わからない。だけど、私はあの場にいた。だからお姉さんのことなら、聞いてもレイは許してくれる?
「ねぇ。ミレーネさんは、どうなったんだろうね。今はどこにいるのかな」
「……もういない」
「え? どうして」
なんでわかるの? レイにはわかるのかな、そういうことって。
私の疑問は結局、回答を得ることはなかった。レイは口を噤んでしまったから。
それが、私とレイの間にある距離間。でも、それを嫌だとは思わない。
もともと、ミレーネさんが間にいたからレイは私と話すようになったんだもんね。
むしろ一言だけでも、教えてくれたことに驚くべきなんだと思う。喜ぶべきだ、とは思わなくても。
ミレーネさんを介さなくても私と話すようになったということは出会ったときよりは仲良くなれた、ってこと。
レイの心配をする気持ちは、少しなら私にもわかるよミレーネさん。私も一応は姉の立場だから。
長い沈黙の間に、私は不謹慎だけど他のことを考えて。口に出してしまった。
「でも、ほんと驚いたなぁ。いきなり許婚って言われて驚いたー」
私は一人でクスクスと笑った。まあ、いきなり言われて驚かない人って鈴実くらいかな?
あとでたくさん言いそうだけど……あの時は私にしては上手くやったなぁって思う。
「その割にはしっかりと言ったな」
レイが口を割った。こんな他愛ない話に付き合ってくれるの?
あ、やばい。クスクス笑いが収まらないかも。今夜はレイもよく喋るなぁ。
「えー。だって話を合わせないといけないんでしょ? それにレイが結婚するとこなんて想像つかないもん」
「悪かったな。だが、これであのじじいも諦めるだろう。お前を見せつけてやったからな」
あからさまにあーせいせいしたって表情浮かべてる。こんな会話、誰かに聞かれたらまずいだろうなー。
折角ついた嘘がパーになっちゃうんだもん。まあ、せいぜい頑張って嘘を隠し通してよ。私はしーらないっと。
「良かったね。許婚がいました、はいさようならーってとこかな」
「ああ。とりあえずはな」
「うん? これで終りじゃないの?」
「いろいろと決めて報告しなきゃならないからな、日取りも」
「……日取りって、なんの」
その滅多に日常会話じゃ出てこない単語って。正式なお披露目を行う日とか、いう意味じゃない……よね?
え、ちょっと待ってよ。まさかほんとに結婚……いや、レイに限って。
あって数日の相手とするわけないし。でも決めるって何を!?
「ホントにするわけじゃないよね? だって私、会って数日の仲だし」
って、この言い方じゃ婚約どうとかすっ飛ばしで結婚の話してるみたいだよ、私なに言って……!
さぁぁーと顔が少し青ざめる。レイのことは嫌いじゃないけど私はまだ子供なんだって。
ああもうそうじゃないって! 好きとか嫌いとか結婚するとかしないじゃなくて。
でも結婚って十六以上じゃないとダメってここは異世界だからそんな法律すらないかも!?
うわーん、そんなのだったら困るよ! レイが本気を出したら私が逃走できる気なんて全然しないもん!
私が一人でパニックを起こしてたところにレイが静止をかけた。
「まあ、当分はそんなもの必要ないがな」
「はぁー、びっくりした」
十代前半で結婚なんて、想像つかないよ……それに皆のこととかあるし。
落ち着いて考えてみると、レイは何を決めるのかも言ってなかったし。
婚約者らしく振舞うだけで良いんだから。守らなきゃいけないってわけじゃないよね。
「よくそうも面相を変えられるもんだな」
「あ、今度教えてあげよっか?」
「余計な世話だ。お前は明日にはいなくなるんだろうが。去る奴が気にする必要はない」
一瞬、私は何のことかと思った。でも、すぐに考えが至った。
この国に来た目的はカースさんの手紙を受け取ること。
それがカースさん誘拐と私の迷子で予定が大幅にずれちゃったんだっけ。
だから今日カースさんの屋敷に泊まったら明日はこの国を出発するって、そう美紀が言ってたっけ。
まだ、お遣いの旅の途中なんだった。いろいろありすぎて念頭から忘れていたけど。
「そうだったね」
でも、まさか早く済むと思ってたのに何日もここにいたんだよね。
光奈の説明じゃぱーっとこの国を通り過ぎるって話だったのに。そのせいで目的を見失っていた。
「あいつらとだけで行くのかと思うと頭が痛むな」
「何よぉ。ほんとは痛まないくせにー」
頭抱え込むレイなんて考えつかない。だったらレイも来れば良いじゃない。ホントならそれくらいしてよー。
「例えだ。死ぬなよ」
「死ぬ気なんてこれっぽちもないってば」
それに皆、魔法についてはスゴ腕なんだから。だから頼まれたのに。見たことないから言えるんだよ。
私の説明には耳も貸さずに、レイは空を見上げた。
あ、全然だ。一かけらも私のいうことなんて聞いてない。まあ、それでこそレイだけども。
「……今日は新月か」
「あ、ほんとだ。新月の時って月がないから暗いね」
私たちの世界じゃ月がなくても街灯がたくさんあったから別に変わりはなかったのに。
この世界には月が出てないとかなり影響があるんだなぁ。夜空を眺めてそう思う。
空は漆黒って言葉があうようで星の明かりだけが夜空の中にある。
綺麗だなあ。天の川があったらすごく綺麗に夜空に映えるのかな?
『ドドドド……』
と。そんな考えをふっとばすような地鳴り、しかも唸り声付きですごく嫌な予感が。
「……この音って、まさか」
いつの間にか音が近づいてきてる。振り向いて確かめなくたってわかる。
あんなにうるさい集団は一つしか心あたりない。あー、もうどうしてこうも因縁あるのかなあ。
「此処まで来ても追跡を止めないとは。死に急いだな」
「……レイ?」
え、レイからもなんだか嫌な感じがする。レイの顔を見上げてみた。
特に笑ってるわけじゃないけど。目が、赤い。逆光の位置からでも何故だかわかる。
いつもは深い青の瞳が今は深紅に染まっていた。いつの間に?
「新月の日はさすがに力の制御が効かないからな、俺も」
え。思わず瞬きが二回。私の予感的中? 今のレイっていつもに増して危ない人?
それって、つまり新月の夜のレイは抑えがきかないってことは……魔者覚醒とかいうやつ?
でもキュラみたいには嬉々としてるわけでもないし……目覚めて何か嬉しくなるわけじゃないみたい。
瞳以外は特に変化はなさそう。心配は必要ないのかな? レイが取扱要注意人物なのはいつものことだし。
「新月の序章……」
今のなし。うん、前言撤回。レイがそういうセリフ言うわけない! 外見、言動には異変がなくても思考が変だよ!
うーん、なんか心配だなぁ。いや、兵隊のことじゃなくて。ややこしいことにならなきゃ良いんだけど。
まだまだ長い一日は終わりをつげてくれそうになかった。もう今何時ぃ?
どこかの通りにはいったあたりで、私はようやく横抱き状況から抜けた。
この格好じゃ歩きづらいからそのままのほうが確かに楽だけどね。
でもやっぱ誰かに見られることのほうが気恥ずかしい。鈴実はそこで恥ずかしくなかったあたり、やっぱ大物?
今更のことだけど私はそう思った。うーん、昔から鈴実って冷静だからなー。
まわりの目をあんまり気にすることなんてなかったんだよね。
歩き始めて結構時間が経ったところで私は違和感みたいなものを感じた。
少し見覚えがあるような建物がある気もするような、しないような。なんだろ?
「地響きとか怒号がある割になかなか追いついてこないね」
遠いところで地響きとかの音はきこえてくるのに。それから怒号も。
私とレイはただ歩いてるだけ。走ってて追いつけないはずはないよね。もしかして迷ってる?
うわぁ……走ってて迷ったなんてすごいよ。しかもたった二人を追いかけてるだけなのに。
んー、いや標的が二人しかいないから見つけにくいのかな? 的が小さいと矢を当てにくい感じ?
弓矢といえば美紀だけど、美紀なら逆に少人数を見つけ出すほうが簡単だって言ってたけどなあ。
確かにこの通りに入ってからいろいろ曲がり道分かれ道があって右折左折してたけど。
聞き込みとかしないのかな? あ、夜だから無理か。でも夜中に怒号出してたらクレームが来るよ。
「此処に踏み込んだ時点で奴らの命はなかったからな」
え。それってどういうこと? 相変わらず話が飛んでるよ。
『ザッ』
音のした後ろを振り向くと、人がいた。ということは。ついに追いつかれた?
でも私は慌てることはなかった。あの怒号のわりには少ない気がした。おかしい。
私が巻き込まれて皆とはぐれることになったときの数倍の頭数が今日お城を抜けた時にはいた気がするんだけど。
ざっと、全校集会のときに校庭に集まる人数くらいはいたと思う。つまり、おおよそ五百人くらいは。
それが今ではせいぜい一学年分くらいしか目の前にいなかった。それも、無傷というわけじゃない。
何があったの。まさか、全員がこけたりしたとはさしもの私でも思ったりしない。
まるで――戦線をたったいま潜り抜けてきたところだというかのような形相だった。
「たったこれだけか」
「……レイ? なに言ってるの、こんな大人数」
この人たちは間違いなく私たちを狙っている。いくら鈍感でも、それは肌で感じとれた。
だって。一人一人の眼が私とレイを睨んでいた。見覚えのある、詰め襟の黒服と銀の紋章。
私を追うのはわかる。だって、キレた私が蹴り飛ばした相手が所属してる団体だもん。レイとの関連性はわからない。
だけどやっぱり今のレイ、おかしい。元の数よりも少ないとは言っても百数十人はいるのに。
いくら強かろうと一人で相手にできる数じゃないよ。しかもいつもと違って好戦的な雰囲気すらある。
今も抜いてはないけど、いつでも剣に手をかけれるようにしてるし。覚醒すると、誰しもそうなるのかな。
キュラすらああだった。レイは普段から平気で人を殺してるけど、でもそれは悪人だけだよね?
見境なくなっちゃうのなら、それは殺人狂と変わらない。あの人たちは確かに追って来てるけど。
「レイ、絶対殺しちゃ駄目だよ! 悪いのはあのふんぞりかえってるチビだよ!」
多分。私なんかの言葉に耳は貸さない。でもレイにこれ以上の殺しはやって欲しくない。
誰かの命を奪うってことは大きいんだよ。どんなに荒んだ人間でもどこかの誰かが失ったら悲しむよ。
それをレイがわかってないの? そんなことないよね。レイは大切な人を失った時の悲しみをわかってるでしょう。
「今さら誰がどう思おうと良い」
そう言いながらレイは片手で私を投げ飛ばした。気づいたのは、空中浮遊した後。
「ひゃ、あぁ」
なんで片手で投げてこんなに吹っ飛ぶのー!? いや、もうレイが一般レベルじゃないのは充分わかってるけど!
私は弧を描くように空高く飛ばされた。いまのところ降下しそうにない。
レイの握力とか測ったら、測量器のほうが壊れちゃうのかな。そんなことを私は考えてしまう。
で、今も飛ばされたまま勢いは衰えない。もうかれこれ十数メートルの距離は稼いでる。よく建物にぶつからないないよね。
この場所がどこまで一直線上に続いてるのか知らないけど……不自然なくらい、よく飛ばされた私。
レリあたり飛ばされたら驚きよりも感動しちゃうんだろーけど。
みるみるうちにレイの姿が見えなくなっていく。体が少しずつゆるやかに速度を落としていく。
街灯のほのぐらい明かりがあっても、レイの黒コートも暗闇に紛れてしまった。
兵士は誰一人として私を追いかけてはこない。つまりレイの横を通り抜けた人間はまだ誰もいないってこと。
人海戦術、使わないのかな。いくらレイが強くても人の波には抗えないと思うよ。もし、そこを突かれたら。
いや、今はそんなこと考えてる場合じゃないってば。どうしよう、やっぱりレイは……人殺しで、あり続けるの?
『ガッ!』
凄まじい衝撃が体全体に走った。後頭部と背中からじわりと痛みが広がる。目の前が眩んだ。
何がなんだかわからない。私は、建物か何かにぶつかったの? 身体は背中伝いに地へ墜ちた。
空中浮遊は終わった、ということしかわからない。私は一人、暗い小路でへたりこんだ。
今すぐにでも走り出さないと捕まる、ということはないと思う。さっきまでと比べていやに静かだから。
地響きも怒号も聞こえてこない。耳の奥がわんわんとしてるせいも勿論あるんだろうけど。
でも風の流れる音は聞こえる。それは、いとも簡単に掻き消されるものなのに。
ということは、騒ぎ立てる存在が圧倒的に少なくなったということ。数を減らしているのは誰?
きっとレイだけじゃない。レイ以外にも誰か、もしかしたらかなりの人数が対抗して優勢を保っているのかも。
ここは、ラガやスミレのいたお伽話が具現化したような世界じゃない。
魔法は存在しても、建物が勝手に動き出すような空間じゃないのなら。
レイが口にした、踏み込んだ時点で命はないという言葉の意味は一つ。
人間と人間の抗争が、この一帯で発生した。私とレイが通り過ぎた路次のどこかが争いの前線になってる。
「でもど……っ」
痛い。痛くて声がでなかった。どうして、こんなことになってしまったのかわからない。
私とレイを捕まえろって、あのチビが命令して。あの人たちはそれを実行してるだけじゃないの?
後頭部がいまだに振動してるようで気持ち悪い。吐き気をこらえるように左手で口を塞ぎ右手で頭を抑えた。
骨が軋む音はしない。多分、今感じてる痛みはそうひどくはないと思う。そういうのはお母さん仕込みの勘でわかる。
血が出てるわけでもないから内出血してないとは、思う。私はいままで内出血した経験ないし。
立ち上がら、ないと。壁に手をついてそろそろと起き上がってみる。
「い……っ」
立ち上がろうとして激痛が走った。起き上がれない。でも泣き言なんて言ってる場合じゃないよ。
誰かの手を借りないと起き上がれないとか言える程この国は甘くないと思う。
現に今、目に見えてわかることだけでも。レイがあの大人数と対峙してるんだから。私を逃がして、一人で。
ここから先は想像でしかないけど、きっと今レイは交戦してる。それも、かなり上手に人を狩っている最中だ。
だだっぴろい平原のような戦場より袋小路のような狭く入り組んだ場所のほうが一騎当千の働きはしやすい。
個人が複数の人間を相手にして負けないためには、同時に何人もの相手をしないこと。
私が最初にお母さんから言い含められたのはその一言だった。あの頃は、まだ足を洗いきれていなかったから。
お母さんは弱かったらなめられる。見下される、それはとっても耐えれないものだと言っていた。
自分で立ち上がれ。他人の助けを待つな、まず己のできることをやれって言われてたのが今となっては古い記憶。
妹ができる頃には、お母さんは周囲の人にも助けられて完全に暴走族の世界から抜け切った。
だから加奈と稚奈は知らないし、喧嘩しても全然勝てない。女の子相手でも。だけど、二人でそれで良いと思う。
私はドレス、似合わなくても良いんだ。妹二人に似合えば良いよ。
なんだか今日はお母さんに言われてきたことをよく思いだすなあ。普段はそんなことないのに。
というか、私は一人でピンチに立たされたときにばっかり思い出してるのかな。
お母さんの言葉の威力は絶大で、思い出すだけでしっかししなきゃと思わせる力があったりもして。
何よりも実践的だもん。簡単に実行できる程度のことなのに、いざやってみると相手はあっさり倒れた。
今は頑張らなきゃ。ここから動かないと何も始まらない。座りこんでいたら無為に時間は過ぎていくだけ。
逃げることも、戻ることもまずは立ち上がらないことには何もできないんだから。
「よ、と……」
ふらふらと、壁に手をついてだけど今度こそ私は立ち上がった。
だけど。糸が切れてしまったみたいに地面に膝がついた。でも立てたよね、確かに。
どれだけ辛くても一度立ってしまえば、痛みを感じても進むことも引くこともできるようになる。
「う……」
立ち上がって、またよろけそうになる。でも両手を壁についてなんとかそれを免れた。
「やった、立てた……」
大丈夫。まだ痛みは感じるけど。立った直後に比べれば痛みは減ってる。
動き回ってれば痛みが薄れてきていつの間にか治まるよ、ね。
「ひっひっふぇっふぇっへ」
え? 何、さっきの背中がぞくりとする声。しかも変な笑い声。どこから……?
「ふぉっほっほっは」
後ろ!? バッと振りかえると、背後に不気味な何かがいた。暗闇で二つの目だけがギラリと光る。
私は自分でも驚く程の大声で叫んだ。その途端に倒れた。
叫んだせいで激しい痛みが体中を駆け巡ったせいで、意識が飛んでしまったから。
清海を後ろへと投げると、俺は溜めていた息を吐き出していた。
別にわざわざ投げ飛ばしてまで離す必要などなかった。なのに迷わず投げた。逃がしたともいえる。
言葉に誤りはない。もう誰にどう思われようとどうだって良い。
殺すことに善人も悪人もない。俺は今までで数え切れないほどの命を手にかけてきた。
最初はただ姉さんを取り戻す、それだけを生きる支えとして。その途中に邪魔なもの達を全て殺してきた。
今更相手がどんなものだろうと掛かってくるものは全て切り落とす。そうして今を生きている。
そうしていなければ生きるすべがなかったわけじゃない。だがこの道を選んだのは他ならぬ俺。
己の邪魔になるものは消してきた。闇裂きの二つ名を持つ俺が唯一消せなかったものといえば風だけだ。
これだけは消すことなどできなかった。……俺らしくもない考えだな。
風は切れない、だが俺の前に立ち塞がることもなかった。ただそれだけのこと。
数百人の軍人がここの連中の包囲網を抜けた。よくここまで突破したもんだな。
ここをで軍人が通って無傷で過ぎることはない。いつの世も反対勢力はいる。
さらに現国王が国王なだけに、王政は牛耳られていても見てみぬふりをしているようなもの。
じいさんが国王の許を離れる前からあった荒涼がさらに激しくなってきている。
あいつは何もわかっちゃいない。今の兵もあのガキが放ったものじゃない。
何ひとつ自分の力では自分の考えはとおらないようだからな。軍を動かせるわけがない。
俺のことを怪しいと思っている奴の差し金だろう。兵を動かせる奴となれば相場は知れている。
数と腕前をふまえて俺を消したいと思っている奴なら見当をつけるのは容易い。
今日こうなることはあらかじめ予測されていたことだ。あいつに指図されることは何もない。
目の前に姿を現した時から今まで身動きひとつしなかった兵士の一人がかかってきた。
足はしっかりしているとは言えないながらも駆けてくる。左足が血に濡れているのが見えた。
剣を抜き、振り下ろす。それだけの動作で肩から先を失った。人体というのは脆い造りをしている。
片腕だけでも失えば途端に体勢を崩す。前のめりによろけ、曝した首元を落とすのは容易すぎた。
「死に急いだな」
たとえ死にかけだろうと容赦はしない。掛かってくるやつらは全て殺すのみ。
兵士の首が吹き飛んだのを見て一斉に兵士たちが群がってきた。剣をはじきとばせば後ろにいる奴らに刺さる。
得物を失った奴らを俺の剣が貫く。また俺の瞳をみて竦む人間もいた。多少は手応えもある奴も中にはいた。
だが結局は生を失い屍と化す。人間は脆く儚い。
急所を一突きすれば命を落とす。関節に楔を打ち込むだけであっけなく切断される。
みな、そうだった。孤児院から引き取って育ててくれた父さんや母さん。姉さんも例外じゃなかった。
俺以外の……そう、俺の血を分けた弟でさえ魔物の一撃で朽ち果てた。顔も忘れた両親も。
顔も覚えていない、束の間の親だった人と魔物。肉親の父は魔物だった。それも高位の魔物だったのに。
庇って死ぬというのは刹那の時のことしかしか記憶に残っていない。大切な人はいつも目の前で殺された。
だから必要のない感情は捨てた。血で血を洗う俺に暖かい感情などいらない。それは鎖にしかならない。
数分とかからず、その場に立っているのは俺だけとなった。あいつは、どこまでいった。
「うぎゃ――!」
考えるより先に体が動いた。足は悲鳴のした方へと。何もなしに悲鳴をあげる程、弱い奴でもない。
何かいたのか悲鳴は一度きり。叫んですぐに気を失ったか。何者かに失わされたか。
近寄ると、気を失って地面に倒れ込んでいた。すぐに起きそうにはないな。
まわりには何もいない、隠れたのか。不自然な奴だ。清海は気を失っているだけだった。
気を失ってる奴なぞ、どうにでもできるだろう。だが何かされたようなかすり傷一つない。
顔が青ざめているわけでもない。ただ気を失っているだけだ。
『ムクッ』
何だ。視線を動かすと殺した兵士が起き上がりつつあった。次々と呻きを上げながら。
「……そういうわけか」
ここに死者を操る奴が紛れ込んでいた。こいつはそいつを見て気絶したか。
目を合わせると気を失わせるらしいからな、死者を操るのにまともなのはいないということだ。
「退屈せずに済みそうだな」
ただの剣で死者の息の根は殺せない。死者の相手をしながらこいつが目覚めるのを待つか。
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